Foreign Language Correction

悼夏丏尊先生

07 Oct 2023 (UTC)
#0[N3lSE4k]
Profile
Gender
Female
Home country
Mainland China
Live in
Hubei Province(Mainland China)
Languages
Mandarin Chinese
English
Japanese
皆さん、どもはじめまして、おうせいかと申します。日本語学習者です。
Last updated 07 Oct 2023 (UTC)
Language to correct
Japanese
Text to correct
教師として、李先生は範を垂れて、多くの話をしないで、学生は心から感動し、自然に納得する。授業をする時、彼は必ず早めに教室に着いて、黒板に必要な内容を書いておく(別の黒板で隠して、使うときに押してくる)。そして教壇に正座して学生が揃うのを待っている。琴を返す時、学生が音を間違えて弾いたので、彼は目を挙げて見たが、「また今度」と言うだけだ。時々、彼はまだ言わず、学生は彼に見られて、自分で次に返してほしいと頼んだ。彼は無口だか、話すときはいつもにこやかだ。学生は彼を尊敬し大切にすると同時に、彼を恐れている。夏先生はそうではなく、少しも厳しくない、率直に言うので、学生は気軽に彼と親しく交流する。たまたま運動場を通りかかったら、下級生が犬をからかっているのを見て、彼も「どうして犬と困っているのか!」と気をつけなければならない。休みの日、学生が学校を出ると、夏先生はそれを見て「早く帰ってきて、お酒を飲んではいけないよ!」と叫んだ。学生は笑いながら「飲まない、飲まないよ!」と言い続け、歩調を速めて道を急ぐ。学生が遠ざかっていくのを見て、夏さんは「もっとお金を使わないで」と叫んだ。学生は彼がおかしいと感じながら、彼を本当に感謝し、敬愛した。
 夏先生と李先生の学生に対する態度は全く違うが、学生の夏先生と李先生に対する尊敬と大切さは全く同じだ。この二人の先生は、まるで両親のようだ。李先生のは「父の教育」、夏先生のは「母の教育」だ。その後、夏先生が翻訳した『愛の教育』は、国内で流行し、人の心に深く入り込み、国文教材にも取り入れられたのは、決して偶然ではないと思った。
 私は師範学校を卒業してから、日本に行った。日本から帰ってきたら、夏先生と同僚になり、一緒に教師になり、編集者になった。母が亡くなった後、私は仕事を辞めて一人暮らしをして、災難を避けるために、他の場所に行かなければならなかった。しかし、その間も書店との繋がりが強く、いつも上海に行って夏先生と会った。だから、夏先生の授業の場所を離れてから、抗戦に参加する前に彼と決別するまでの二十年間、私はよく夏先生と連絡して、絶えず彼の指導を受けてきた。その時、李先生はすでにお坊さんになった。草履を履いて破れた茶碗を持って、見聞を広めるために各地を遊歴した、夏先生とはまるで二つの世界の人のようだった。しかし、私は彼らがまだ前の先生だったと思った。知識を教える場所が学校から社会に広がっただけだった。李先生は「途方に暮れて世捨て人になる」のではなく、人生の根本的な問題のために和尚をしている。彼は本当の意味でのお坊さんで、民衆の困難と苦痛を深く感じることができて、「男らしいことをする」のだ。夏先生はお坊さんをしていなかったが、李先生の気持ちを十分に理解できて、彼は李先生が民衆の苦しい生活を改善することを賞賛した。さまざまな社会関係の絆で、夏先生は世の中の問題を解決するためにすべてを投げ出す勇気がなかった。夏先生の一生の悲しみと苦しみはそれによって生まれた。夏先生と知り合った人なら、夏先生がいつも心配したり悲しんだりする人であることを知らない人はいなかった。彼は世の中のすべての不快、不安、不真、不善、不美な状況を見て、眉をひそめ、ため息をついた。彼は自分だけでなく、友人、学校、店、国、世を心配していた。友人の中に病気になった人がいると、夏先生は眉をひそめて心配してくれた。失業した人がいて、夏先生はまた眉をひそめて彼に焦っていた。けんかをしたり、酔っぱらったり、友達の奥さんが出産したり、子供が転んだり…夏先生は眉をひそめて心配しなければならなかった。学校の問題、会社の問題、他の人はすべて慣行として処理しているのに、夏先生は自分の問題として、心から心配している。国のこと、世界のこと、他の人が歴史小説として読んでいるのは、夏先生では身近な問題で、心から憂い、眉をひそめ、ため息をついている。
だから、私は彼と一緒に仕事をしている間、夏先生には何事も楽観的に話して、時には彼に隠して心配させないことができる。
彼は李先生と同じように衆生の苦しみを深く感じることができる。しかし、彼は李先生と同じように男らしいことをすることはできない。彼は一生悲しむしかない。
「この世」という大学校では、この二人の指導者が行っているのはやはり「父の教育」と「母の教育」だ。
友人の奥さんが出産したり、子供が転んだりすることは、夏先生が心配しなければならない。では、では、8年間の上海での苦しい生活は、夏先生に計り知れない悲しみをもたらした。憂いは人を傷つけることができて、悲しみは人を傷つけることができ、夏先生の死はこの悲しみを提供する社会がもたらしたものであり、日本の侵略者が促したものである。
これまで私は文章を書くたびに、書き終わったら「この文章を読んで夏先生がどんな評価をするか分からない」と思う。私は夏先生の指導と励ましのもとで文章を書き始めた。今日この文章を書き終えて、私はまた本能的に「この文章を読んで夏先生がどんな評価をするか分からない」と思った。涙がはらはらと原稿用紙に落ちた。
1945(1946)年5月1日に重慶に宿泊した
(豊子愷『悼夏丏尊先生』より)
#1 saori [EEEyYpc]
教師として、李先生は範を垂れて、多くの話をしないが?、学生は心から感動し、自然に納得する。
授業をする時、彼は必ず早めに教室に着いて、黒板に必要な内容を書いておく(別の黒板で隠して、使うときに押してくる)。そして教壇に正座して学生が揃うのを待っている。
琴を返す時、学生が音を間違えて弾いたので、彼は目を挙げて見たが、「また今度」と言うだけだった?
時々、彼はまだ言わず、学生は彼に見られて、自分で次に返してほしいと頼んだ。???
彼は無口だか、話すときはいつもにこやかだ。
学生は彼を尊敬し大切にすると同時に、彼を恐れている。
夏先生はそうではなく、少しも厳しくな、率直に言うので、学生は気軽に彼と親しく交流する。
たまたま運動場を通りかかったら、下級生が犬をからかっているのを見て、彼も「どうして犬と困っているのか!」と気をつけなければならない。???
休みの日、学生が学校を出ると、夏先生はそれを見て「早く帰ってきて、お酒を飲んではいけないよ!」と叫んだ。
学生は笑いながら「飲まない、飲まないよ!」と言い続け、歩調を速めて道を急ぐ。
学生が遠ざかっていくのを見て、夏さんは「もっとあまり?お金を使わないで」と叫んだ。
学生は彼がおかしい??と感じながら、彼を本当に感謝し、敬愛した。
 夏先生と李先生の学生に対する態度は全く違うが、学生の夏先生と李先生に対する尊敬と大切さは全く同じだ。
この二人の先生は、まるで両親のようだ。
李先生のは「父の教育」、夏先生のは「母の教育」だ。
その後、夏先生が翻訳した『愛の教育』は、国内で流行し、人の心に深く入り込み、国文教材にも取り入れられたのは、決して偶然ではないと思った。
 私は師範学校を卒業してから、日本に行った。
日本から帰ってきたら、夏先生と同僚になり、一緒に教師になり、編集者になった。
母が亡くなった後、私は仕事を辞めて一人暮らしをして、災難を避けるために、他の場所に行かなければならなかった。
しかし、その間も書店との繋がりが強く、いつも上海に行って夏先生と会った。
だから、夏先生の授業の場所を離れてから、抗戦に参加する前に彼と決別するまでの二十年間、私はよく夏先生と連絡して、絶えず彼の指導を受けてきた。
その、李先生はすでにお坊さんになった。
草履を履いて破れた茶碗を持って、見聞を広めるために各地を遊歴した、歴遊した。?夏先生とはまるで二つの別の?世界の人のようだった。
しかし、私は彼らがまだ前の先生だった達のまま?だと思った。
知識を教える場所が学校から社会に広がっただけだった。
李先生は「途方に暮れて世捨て人になる」のではなく、人生の根本的な問題のために和尚をしている。
彼は本当の意味でのお坊さんで、民衆の困難と苦痛を深く感じることができて、「男らしいことをする」のだ。
夏先生はお坊さんをしていなかったが、李先生の気持ちを十分に理解できて、彼は李先生が民衆の苦しい生活を改善することを賞賛した。
さまざまな社会関係の絆で、夏先生は世の中の問題を解決するためにすべてを投げ出す勇気がなかった。
夏先生の一生の悲しみと苦しみはそれによって生まれた。
夏先生と知り合った人なら、夏先生がいつも心配したり悲しんだりする人であることを知らない人はいなかった。
彼は世の中のすべての不快、不安、不真、不善、不美な状況を見て、眉をひそめ、ため息をついた。
彼は自分だけでなく、友人、学校、店、国、世を心配していた。
友人の中に病気になった人がいると、夏先生は眉をひそめて心配してくれた。
失業した人がいると、夏先生はまた眉をひそめて彼に焦ってを心配して?いた。
けんかをしたり、酔っぱらったり、友達の奥さんが出産したり、子供が転んだり…
夏先生は眉をひそめて心配しなければならなかった。
学校の問題、会社の問題、他の人はすべて慣行として処理しているのに、夏先生は自分の問題として、心から心配している。
国のこと、世界のこと、他の人が歴史小説として読んでいることは、夏先生にとっては身近な問題で、心から憂い、眉をひそめ、ため息をついている。
だから、私は彼と一緒に仕事をしている間、夏先生には何事も楽観的に話して、時には彼に隠して心配させないことができる。ようにした?
彼は李先生と同じように衆生の苦しみを深く感じることができる。
しかし、彼は李先生と同じように男らしいことをすることはできない。
彼は一生悲しむしかない。
「この世」という大学校では、この二人の指導者が行っているのはやはり「父の教育」と「母の教育」だ。
友人の奥さんが出産したり、子供が転んだりすることは、夏先生が心配しなければならない。
では、ではそして?、8年間の上海での苦しい生活は、夏先生に計り知れない悲しみをもたらした。
憂いは人を傷つけることができ、悲しみは人を傷つけることができ、夏先生の死はこの悲しみを提供する社会がもたらしたものであり、日本の侵略者が促したものである。
これまで私は文章を書くたびに、書き終わったら「この文章を読んで夏先生がどんな評価をするか分からない」と思う。
私は夏先生の指導と励ましのもとで文章を書き始めた。
今日この文章を書き終えて、私はまた本能的に「この文章を読んで夏先生がどんな評価をするか分からない」と思った。
涙がはらはらと原稿用紙に落ちた。
1945(1946)年5月1日に重慶に宿泊した
(豊子愷『悼夏丏尊先生』より)
Corrected No problem
違和感のある箇所は結構あるのですが、原文がそういう書き方なのか、和訳でそうなってしまったのかが分からないので、とりあえず明らかに変なところだけ訂正しました。
和訳があっているのかは分かりませんが、読んで意味は分かる文は「N」にしました。
14 Oct 2023 (UTC)
#2[N3lSE4k]
ありがとうございました❣
27 Oct 2023 (UTC)
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